文系SEのあしあと

私立文系から外資系SEになった人のブログ

劣等感を抱えるすべての人々に捧げる ~アドラー流劣等感克服法~

この前書店を歩いていると、こんな本に出合った

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

 一際目を引くこのタイトルに惹かれ、そのまま購入した。

 

家に帰り早速あらすじに目を通す。

「どうすれば人は幸せに生きることができるか」という哲学的な問いに、きわめてシンプルかつ具体的な“答え”を提示します。~

「本当かよ」と思ったが、読み始めると最後まですらすらと読めた。

感想として、確かに「幸せに生きるためのヒント」は学べたと思う。

本書の中で特に印象的だったのは、「劣等感」について書かれたところだ。

その部分を読んだ感想を今回は書こうと思う。

 

「劣等感は、主観的な思い込み」

アドラーは劣等感を「客観的な事実」ではなく、「主観的な解釈」と説明する。

本書は悩める青年と哲人(アドラー哲学の投影)との対話形式で進んでいくが、その哲人はこの劣等感について、身長を例にして説明する。

 

哲人の身長は155cmの低身長で、若いころはそのことに劣等感を感じていた。

ある日、若かりし頃の哲人は低身長について友人に相談したところ、彼は「くだらない」と一蹴した。

彼は「お前には人をくつろがせる才能があるんだ」と言った。

それを聞いた哲人は、「たしかに、大柄で屈強な男性は、それだけで相手を威圧してしまうところがあるのかもしれない。一方、小柄なわたしであれば、相手も警戒心を解いてくれる。」と思えるようになり、いまはもう、自分の身長を悩まなくなったそうだ。

つまり、155cmという身長は劣等感」ではなかった、ということだ。

155cmの身長は単なる「客観的な事実」であるが、その身長にどのような意味づけをほどこすか、どのような価値を与えるのかは自分次第

「主観的な解釈」とはこういうことだ。そしてこの「主観的な解釈」は「勝手な思い込み」であるとも哲人は主張する。

 

これを読んだとき、何だか心がスッと軽くなった気がした。

身長や学歴など、何でもポジティブかつ主観的に解釈しよう。そんな風に思えるようになった。

 

「劣等感それ自体は、なにも悪いものではない」

また、哲人は「劣等感は誰にでもあるもの」で、「劣等感それ自体は、なにも悪いものではない」と説明している。

しかも健全な劣等感は、現状に満足することなく、常に成長しようという気持ちにしてくれるようにプラスの側面があると主張する。

 

しかし、「劣等感」と「劣等コンプレックス」を混同してはいけない

アドラーによると、「劣等感」は決して悪いものではなく、努力や成長を促すきっかけにもなりうるものであるが、「劣等コンプレックス」は「自らの劣等感をある種の言い訳に使いはじめた状態のこと」を指す。

具体的には、「わたしは学歴が低いから、成功できない」、「わたしは器量が悪いから、結婚できない」と考えることが「劣等コンプレックス」であるとアドラーは説明する。

 

この「劣等コンプレックス」という概念を知ってから、色々と思い当たる節がある。例えば、「自分の家は貧乏だから幸せになれない」と以前まで考えていたが、「貧乏だから幸せになれない」のではなくて、貧乏であることを「ある種の言い訳」にすることで、自分が幸せと感じていないことを正当化する。

そうではなくて、自分が幸せと感じていない理由にはもっと他のところにある。このことに本書を通して気づかされた。

 

最後にこの言葉を共有して今回の締めにしたいと思う。

 

「健全な劣等感とは、他者との比較の中で生まれるのではなく、〈理想の自分〉との比較で生まれる」

 

最後まで読んでくれてありがとうございました。