【読了】『日本が売られる』
『日本が売られる』。初めてこのタイトルを見たとき、「え、日本売られるの?」と好奇心がゆすぶられたことを覚えている。
そんな『日本が売られる』を読み終えたので、感想等を記したいと思う。
私たちが気づかぬ内に、日本政府は着々と日本固有の様々な資産を外国グローバル企業に売り飛ばしている。
例えば、昨今ではメディアでも取り上げられるようになり国民への認知も広まりつつある、「水道の民営化」問題だ。
「水」という人間の生死に直結する生活インフラを、「金だけ今だけ自分だけ」の営利企業に委ねることの危険性は言われなくても分かるはずだ。しかし、この危険性と今の日本は隣り合わせにいるということを一体何人の日本人が知っているんだろうか。かく言う僕もこの本を読むまでは夢にも思わなかったが...
本書ではこの「水道の民営化」問題を多様な資料やデータを使いながら、国際ジャーナリストである堤未果の深い洞察力と共に説明している。
その他にも、日本の「土・タネ・ミツバチ・食の選択肢・牛乳・農地・森・海・築地」が危機にさらされている事実にも光を当てている。
本書を読み終えて一番考えさせられたことは、「遠くのものばかり見て、自分の身のすぐ回りにあるものが見えていない」ということだ。
のどが渇いたときにペットボトルのキャップを外して何気なく飲んでいた水。「いやちょっと待てよ、あの水ってどこから来てるんだろう?というか蛇口を捻ったらすぐに出てくるこの水って一体どういう仕組みで私たちのもとに届けられているんだろう?」
このように身近にあり過ぎて普段私たちが当たり前に思っていることに意識的になって、疑問を投げかける。ありとあらゆるものに値札を付ける強欲資本主義に生きる私たちはこのスキルを身につける必要があるのではないだろうか。
少なくとも私は、本書を読んでそう考えさせられた。
最後に、本書で個人的に印象的だった部分を引用して今回のブログを締め括りたい。
「国民はいつの間にか、何もかも〈経済〉という物差しでしか判断しなくなっていた。だから与えられるサービスに文句だけ言う〈消費者〉になり下がって、自分たちの住む社会に責任を持って関わるべき〈市民〉であることを忘れてしまっていたのです」
【読了】『人を動かす』-D・カーネギー著-
現在僕の通う大学は秋学期が終了し、長い長い春休みに突入した。
義務教育時代は「春休みの宿題」なんてものがあったが、大学にはそんなものは無い。つまり次の春学期が始まる4月までは自由を謳歌できる。
この自由をどのように使うか。考えた末に出た結論が、
- 英語学習
- 暇な時間や休憩時間に読書することを癖付けする
- 読書などのインプットをこのブログを通してアウトプットする
- 週1で筋トレする
これら4つを春休みに継続して取り組もう。
今回はその内の1つである「読書」について書こうと思う。
話を変えるが、去年の春学期に履修していた授業で「教育心理学」というものがあった。英語の教員免許を取得する予定の人は必修で受けなければいけない授業だ。
この授業ではその名の通り、教育で必要な心理学を学ぶことができる。
そしてこの授業は今まで僕が履修してきた中で特に有意義なものであった。教育以外の場でも役に立つような内容で、一言も聞き逃すまいと前のめりで授業を受けたことを今でも覚えている。
その授業は最後に必ず、教育心理学に関連した教授おすすめの本を紹介してくれるのだが、その中の1つにこんな本があった。
D・カーネギー著の『人を動かす』という本だ。
当時教授は「この本は是非読んどいた方がいいよ!」と仰っていて、僕はその時「いつか読みたいな」と思ったが、月日が流れて今年の1月。
20歳にもなって親族からもらったお年玉を手に近所の書店をうろうろしていたところ、偶然この本に再開したのである。
「これはもう買うしかないだろ」と思ってその本を手に取り、足早にレジに向かい購入した。
その日から毎日ちょこちょこ読んできて、今日先ほど読み終えた。
『人を動かす』の感想としてまず言いたいのが、これは「良書中の良書」である。「人生のバイブル」と言っても過言ではない。マジで。
「人を動かす」という日本語訳で何だか「人の仕切り方本」みたいな印象を与えるが、原書のタイトルは "HOW TO WIN FRIENDS AND INFLUENCE PEOPLE" となっており、直訳すると「友人の作り方と人に影響を与える方法」となる。
この本は主に、
- 人を動かす三原則
- 人に好かれる六原則
- 人を説得する十二原則
- 人を変える九原則
の4つのパートから構成されている。
それぞれの原則を提示した後に、より分かりやすくするための具体例を紹介するという流れで本書は進んでいく。
この本一冊で人間関係に関するスキルが全て身につくと思う。マジで。
この本は一読するだけではもったいない、と読み終わった後に感じた。何回も読み直し、そしてそこに記されている原則を実生活で実践する。そうすることで何倍にもなって『人を動かす』の恩恵が得られると思う。
実際にここに書かれてあるいくつかの原則を意識して人と接するようにしているが、今までとは比べ物にならないくらい人間関係が楽になった。しかも不思議と人から好かれるようになった気がする。(これは気のせいかもしれないが笑)
とにかく、すべての人にこの本を心の底から薦めたい。
まとめ
今我々が生きている「社会」というものは「人間関係」を土台に構築されていると言っても過言ではない。そのため、その「社会」の枠組みの中で生きている私たち人間にとって『人を動かす』は「必読書」であることは間違いないだろう。
劣等感を抱えるすべての人々に捧げる ~アドラー流劣等感克服法~
この前書店を歩いていると、こんな本に出合った
一際目を引くこのタイトルに惹かれ、そのまま購入した。
家に帰り早速あらすじに目を通す。
「どうすれば人は幸せに生きることができるか」という哲学的な問いに、きわめてシンプルかつ具体的な“答え”を提示します。~
「本当かよ」と思ったが、読み始めると最後まですらすらと読めた。
感想として、確かに「幸せに生きるためのヒント」は学べたと思う。
本書の中で特に印象的だったのは、「劣等感」について書かれたところだ。
その部分を読んだ感想を今回は書こうと思う。
「劣等感は、主観的な思い込み」
アドラーは劣等感を「客観的な事実」ではなく、「主観的な解釈」と説明する。
本書は悩める青年と哲人(アドラー哲学の投影)との対話形式で進んでいくが、その哲人はこの劣等感について、身長を例にして説明する。
哲人の身長は155cmの低身長で、若いころはそのことに劣等感を感じていた。
ある日、若かりし頃の哲人は低身長について友人に相談したところ、彼は「くだらない」と一蹴した。
彼は「お前には人をくつろがせる才能があるんだ」と言った。
それを聞いた哲人は、「たしかに、大柄で屈強な男性は、それだけで相手を威圧してしまうところがあるのかもしれない。一方、小柄なわたしであれば、相手も警戒心を解いてくれる。」と思えるようになり、いまはもう、自分の身長を悩まなくなったそうだ。
つまり、155cmという身長は「劣等感」ではなかった、ということだ。
155cmの身長は単なる「客観的な事実」であるが、その身長にどのような意味づけをほどこすか、どのような価値を与えるのかは自分次第。
「主観的な解釈」とはこういうことだ。そしてこの「主観的な解釈」は「勝手な思い込み」であるとも哲人は主張する。
これを読んだとき、何だか心がスッと軽くなった気がした。
身長や学歴など、何でもポジティブかつ主観的に解釈しよう。そんな風に思えるようになった。
「劣等感それ自体は、なにも悪いものではない」
また、哲人は「劣等感は誰にでもあるもの」で、「劣等感それ自体は、なにも悪いものではない」と説明している。
しかも健全な劣等感は、現状に満足することなく、常に成長しようという気持ちにしてくれるようにプラスの側面があると主張する。
しかし、「劣等感」と「劣等コンプレックス」を混同してはいけない。
アドラーによると、「劣等感」は決して悪いものではなく、努力や成長を促すきっかけにもなりうるものであるが、「劣等コンプレックス」は「自らの劣等感をある種の言い訳に使いはじめた状態のこと」を指す。
具体的には、「わたしは学歴が低いから、成功できない」、「わたしは器量が悪いから、結婚できない」と考えることが「劣等コンプレックス」であるとアドラーは説明する。
この「劣等コンプレックス」という概念を知ってから、色々と思い当たる節がある。例えば、「自分の家は貧乏だから幸せになれない」と以前まで考えていたが、「貧乏だから幸せになれない」のではなくて、貧乏であることを「ある種の言い訳」にすることで、自分が幸せと感じていないことを正当化する。
そうではなくて、自分が幸せと感じていない理由にはもっと他のところにある。このことに本書を通して気づかされた。
最後にこの言葉を共有して今回の締めにしたいと思う。
「健全な劣等感とは、他者との比較の中で生まれるのではなく、〈理想の自分〉との比較で生まれる」
最後まで読んでくれてありがとうございました。